昔、ユリイカかなんかの記事で黒沢清のインタヴューを読んだ。
そん時こんなふうなことを書いちょった。
自分の作品を見返すのは、恥ずかしい的な。死ぬ前に見て、死んでしまいたい的な感じのこと。
そのときは、黒沢清でさえそんなこと思うがやって思った。
後に「スウィートホーム」とかいう、デビュー作見たときは、このことか?って思ったけど。
それはさておき、おんなじことは自分でも言えるわ。
昨日、自分の作った短い映像とか、文章の書きかけとか見て、実感。
特に自分だけで、撮影編集したやつなんか、もう誰にも見せることないわ。
文章とかも、恥やね、恥。
自分で映画見るときなんて、かなり手厳しいこと言えるし、文章批判もできるけど、自分がされるとなると、それに耐えうる作品じゃないなって言うことやね。
自分は今後何かを形にすることなんてできるがやろうか?
戦時中、満洲と呼ばれた国にいた、文学者たちや映画人その他の人々は、考え方の違いこそあれど、結構やる気あった感じがする。
文学者間では、日本人が満洲国を引っ張っていく的な人や、五族協和に根ざして各民族の文学を発展させて全満洲でがんばろう的なな違いははあったけど、そういう意見戦わせてでも、理想はなんたるかを考えてるパワーに感服するね。
満洲の映画人やったら、やっぱり甘粕。戦後上手に評価されるような、人生を送ってはないけど、なんかほぼ死ぬまで一貫した生き方はすごい。留学中は彼もモラトリアムの中でもがいてたみたいやけど。
でも、それもやっぱり時代のおかげながじゃないろうか?
今、俺がおるこの時代では何もかもが、ニヒリズムとシニズムに流されていく。
本当にやりたいことやって?そんなものあるわけないやん。全部やりつくされちゅうし。やれることをやりたいことをやりゆうみたいにやってるだけ。
とは言っても、当時の満洲でも、満人作家の代表格古丁の作品とかは結構虚無で溢れてるらしい。
いつの時代でも、社会にぶつかって、諦めて、無抵抗になる人はおるってことやね。
ただ、なんか求められちゅうことが違うがじゃないろうかと思う。
俺が作っていかないかんがは、新しい何かじゃなくて、自分が今あるものの中でそれを改良した何か。
でも、それもいつの時代も一緒か、やっぱり。
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